「共生社会」っていう言葉、最近はやっていますよね。
耳にする機会が増えました。
どういう意味なんだろう、と思ってネットで調べてみたらこう書いてありました。
『誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様な在り方を相互に認め合える全員参加型の社会である』
みんな違って、みんないい、みたいな考え方でしょうか。
ところで、私の子どもが小学生の頃、夏休みに区営のプールに連れて行ったことがあります。泳ぎ終わって小腹がすいて、お菓子を食べたいと言うので、「好きなの買っておいで」と500円玉を渡しました。喜んで売店に行った子どもが、こわばった顔をして固まっています。
どうしたのかと思って近づいてみると、売店のおじさんの片方の腕がなかったのです。しかも、肩から数センチ残っている断端を隠さずあらわにしていました。
子どもは全身でその衝撃を受け止めたようで、お菓子を買うこともできず、「ものすごくびっくりした。」と涙目になっていました。
それは本当に素直な反応ですよね。
子どもにとったら腕のない人は自分の常識の外なわけです。子どもの“普通”から大いに外れていたのです。
私は、こうした自然な感情を抑え込んで、みんな一緒、共生社会!と叫ぶのって、なんか無理があるなあと思うんです。
子どもたちって、学校でいやっていうほど“普通”とか“常識”を叩き込まれるんですね。
だから、そこから外れたものを受け入れがたいのは当然です。
ちょっと偉そうですけど、私は、本当に多様な在り方を素直に認めあうためには、そういう教育を改めるところからなんじゃないかな、と思うんです。
そもそも普通って、平均値みたいなイメージで、はっきりとした実態はないですよね。
だから、そこに近いような人もいれば遠いような人もいるけど、ぴったりそこに当てはまる人って、結構いないんじゃないでしょうか。
『常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことを言う』
アインシュタインもそう言っています。
すでに“常識”とか“普通”に縛られてしまった私たちにできることは、まず、そういうフィルターにとらわれてものを見ているということを自覚すること。 そしてそのあとで、周りのすべてのものや人に、改めて、“初めまして”とあいさつすることじゃないかなあ、と思うのです。
コメント